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競馬予想 無料 菊花賞 GⅠクラシック最終戦! レースデータ分析
【前走重賞組が好成績!!!】
過去10年の出走馬の前走の条件別成績を見てみると、
前走重賞組が3着以内馬30頭のうち27頭を占める好成績で、
他のレースからの組を圧倒していた。
やはり、
最後の一冠を争うハイレベルのメンバーが究極の仕上げで臨んでくるレースだけに、
前走で強敵相手に厳しい戦いを経験した馬が優勢のようだ↓
前走の条件別成績(過去10年)
前走の条件 成績 勝率 連対率 3着内率
GⅠ 0-0-0-1 0% 0% 0%
GⅡ 9-9-8-92 7.6% 15.3% 22.0%
GⅢ 0-0-1-3 0% 0% 25.0%
重賞計 9-9-9-96 7.3% 14.6% 22.0%
オープン特別 0-0-1-4 0% 0% 20.0%
1600万下 0-0-0-5 0% 0% 0%
1000万下 1-1-0-30 3.1% 6.3% 6.3%
500万下 0-0-0-5 0% 0% 0%
未勝利 0-0-0-1 0% 0% 0%
次に、
菊花賞の開催時期が11月から10月に繰り上げられた
2000年以降の過去8年について、
前走のレース別成績を調べたところ、
神戸新聞杯組が優勝馬6頭を含む
3着以内馬15頭と圧倒的なシェアを占めていた。
これに対して、
セントライト記念組は、
わずか1勝、3着以内馬も4頭と劣勢で、
率の上でも神戸新聞杯組に大きく水をあけられている。
ちなみに、
古馬相手の重賞をステップに臨んだ馬は、
該当馬こそ少ないものの、
〔0・2・1・7〕(連対率20.0%、3着内率30.0%)
と、なかなか健闘している。↓
前走のレース別成績(過去8年)
前走のレース 成績 勝率 連対率 3着内率
神戸新聞杯 6-3-6-38 11.3% 17.0% 28.3%
セントライト記念 1-2-1-26 3.3% 10.0% 13.3%
札幌記念 0-1-0-2 0% 33.3% 33.3%
京都大賞典 0-1-0-0 0% 100% 100%
朝日チャレンジC 0-0-1-2 0% 0% 33.3%
その他の重賞 0-0-0-5 0% 0% 0%
重賞以外のレース 1-1-0-42 2.3% 4.5% 4.5%
競馬予想 無料 菊花賞 GⅠ 地方競馬の「菊花賞」
地方競馬でも菊花賞を範した競走がある。
ただし中央競馬の菊花賞と同等の機能を持った競走とは限らない。
競走名 格付 主催者 施行競馬場 施行距離 備考
1 東海菊花賞 SP1 愛知県競馬組合 名古屋競馬場 ダート2500m 古馬出走可
2 姫山菊花賞 重賞 兵庫県競馬組合 園田競馬場 ダート1700m 古馬出走可
3 黒潮菊花賞 重賞 高知県競馬組合 高知競馬場 ダート1900m 高知三冠第3戦
4 福山菊花賞 重賞 福山市 福山競馬場 ダート2250m アラブ系古馬競走
5 ばんえい菊花賞 BG2 帯広市 帯広競馬場 直線200m ばんえい競走
6 北関東菊花賞 北関東G1 群馬県競馬組合 高崎競馬場 ダート2100m 2004年廃止
7 つもつけ菊花賞 重賞 栃木県競馬組合 宇都宮競馬場 ダート2600m 1999年廃止
8 南国菊花賞 重賞 高知県競馬組合 高知競馬場 ダート1400m アラブ系古馬競走
1998年廃止
9 九州菊花賞 KG1 佐賀県競馬組合 佐賀競馬場 ダート1800m 2000年まで佐賀菊花賞
2003年廃止
10 中津菊花賞 重賞 中津市 中津競馬場 ダート2180m アラブ系古馬競走
1999年廃止
競馬予想 無料 菊花賞 GⅠ エピソード2
落馬
2002年の第63回、
1番人気に支持された武豊騎乗のノーリーズンが
スタート直後に躓き鞍上の武豊が落馬し競走を中止した。
人馬ともに怪我はなかったが、
同馬絡みの勝馬投票券(馬券)
約110億円分(この年の菊花賞の売り上げの約半分)が
一瞬のうちに紙屑となった。
なおこのレースで優勝したのは
10番人気のヒシミラクルで
2着に16番人気のファストタテヤマが入り、
大波乱を巻き起こした。
奇しくも10日後に名古屋競馬場で施行された、
第43回東海菊花賞でもレジェンドハンターに騎乗した
安藤勝己がスタート直後に落馬している。
競馬予想 無料 菊花賞 GⅠ エピソード
競走不成立
1944年の第7回は第二次世界大戦中に能力検定競走として
長距離特殊競走の名で施行され、
第13回東京優駿競走の
優勝馬カイソウが3:30 4/5(当時は時計が1/5秒表示)の時計で
クリアズマに3/4馬身の差を付けて勝利、
競走も終わり騎手も検量室に引き上げ検量を終えた時、
審判団から競走の不成立が申し立てられた。
不成立の真相は第6回競走のコースが内回り1周・外回り1周だったのに対し
第7回競走は内回り2周に変更されていたのだが
主催者側の日本競馬会の伝達不備で全出走馬が
前回と同じコースを通過、
規定の3000mよりも100m程多く走ってしまったのである。
これにより1944年の第7回は競走不成立により全出走馬が失格、
改めて1946年に第7回が行われた。